自分がnhkに入りたいのは

後世に残る番組を作りたいから。

人を過去を省みさせ、将来に目を向けさせ、そして導くような番組を作りたいから。真の意味で人を豊かにしたいから。

Nhkはきっと今後もその役割を担っていく、自分もその一員でありたい。

まずは自分が納得できるものを作りたい。その後に、人を豊かにしたい。

「君は俳優になれ」

 ある酒の席で、あと数年で定年を迎えるテレビマンが「おい、かなとこっちこい」とテーブルをはさんだ向かいから手招きした。

うっすと生返事をして、ビールが入ったコップを片手に僕は彼の元へ向かった。

彼は僕にまずこのような話をした。

「はじめは頭でっかちでどことなくうさん臭そうな雰囲気があったけれど、本当はよく考えている人間だった」

日中、企画をたてて、撮影をしたのだが、彼の僕の第一印象は最悪だったらしい。

「お前はなかなかきわどいにんげんなんだよなぁ。」

それは自分がイチバン理解している。

その後に彼が僕にいった言葉をどうも引きずっている。もしかしたら今後ずっとつきまとう言葉かもしれない。そのような不思議な重みがあった

「君は俳優になったらどうだ」

「いや、むりですよ。だって俺、顔がカッコイイわけでもないし背が高いわけでもない。どこも特別なものを持っていないんです」

「・・・そういうことではないんだよ」

彼は鼻から息を漏らしてそう小さくつぶやいた。そして話は酒の席らしい一晩で色あせるどこにもいかないような内容に移っていった。

あれから半年以上たち、あの言葉をしばしば思い出すことがある。

彼は僕に何を伝えようとしたのだろうか。

シンプルに「君の能力ではこの世界ではやっていけない」と忠告しようとしたのかもしれない。きっとその意味合いも少なからず含まれていただろう。僕は社交性がないし感情の起伏が少ない。

もしかしたら、「君の適性は演じることにあり」と長い経験から培った適性を見極める力をもってそう感じられたのかもしれない。

そうだとしたら、あまりにも恥ずかしい受け答えをしてしまったなと赤面してしまう。私は俳優の仕事がどういうものかをあまりに知らなすぎたあまり非常に稚拙な考えを話してしまった。

あれがただの酒の席的な話であってほしいと少し願ってしまう。けれどそうではないのは自分が身をもって感じている。彼の表情と声色にはたしかな意志と責任のようなものがあった。

やれやれと溜息のようなものが出る。

「俳優になれだなんて、あれってどういう意味なんすか」と聞いてしまえれば話はとても簡単だ。けれど、どこかその行いは彼に対して不誠実だし、自分のためにならないと感じるのだ。

やれやれ、とんだ小言を残されたもんだ。

 

不器用

自分の趣味って大概だなと思う。

かなとって大多数が好きそうなものは嫌ってそうだよね。と友人になんども言われる。

そして興味の幅がありすぎて、何が軸なのかわからないとも言われる。

僕の軸はきっとシンプルだ。

人の手垢があまり付いていないもので、かつ人を惹きつける要素が含まれているもの。である。

それは精神病患者が描く精密な絵であり、ベトナムの土着の食べ物であり、まったくしらん野草だったりするのである。

まあ人がみたらおまえ何が好きやねんってなるだろうな。

なぜ上記の軸を持って生活しているのかを考えると、それもシンプルに答えを得られる。

他人に自慢したいからだ。こんなおもろいもんあるぞ。お前知らんのかってね。

むしろそっちが前提にあるのかもしれない。

そう考えると、昔から変わらんね。

遊戯王のレアカードゲットしたと嘘をついて友達の興味を引いていたのが懐かしい。その件で何人かの友達を失った。

今はそれに懲りたんだろう。正当な方法で他人の気をひくようになった。

書いてて哀れに思えてきたな。けど人間そんなもんだ。不器用にやるさ。

若さと寛容さについて

無知を知らないと驕り高ぶる。人は不寛容になる。
僕を含め、若者はいつも不寛容だ。ある人は若者はプライドが高いといい、ある人は若者は傲慢だという。
ダサいイカしてるの判断はできるが、イカしたものを自分で生み出すことはできない、くらいの中途半端な知識と経験を持つ若者はやっかいだ。お前は誰やねんという斜に構えたそぶり。そして痛烈な批評。目にすると不快な気持ちになる。
不寛容さは無知を知らないから生まれる。それは明らかなことだ。では、なぜそうと知りながら、僕たちは傲慢でプライドが高いんだろう。
たぶんそれは僕たちが若いからだ。体力があり、比較的余生が長く、希望を抱きやすい。僕たちは若い故に希望を抱き、不寛容となる。
だとしたら、僕たちは不寛容さを乗り越える努力をするのではなく、受け入れて生活に落とし込む努力をするべきなのだろう。不寛容であること自体が罪なのではなく、それを対処できるかどうかが問題となる。
生きよう。生きづらいけれど。誰かがそっと後ろから見守っていてくれると信じて。

坂本龍一と図書館から見える風景

大学の図書館で雑誌を読むのが僕のささやかな楽しみである。

坂本龍一を特集した美術手帖の最新号を僕は文字通り巻頭から1ページずつ1ページずつめくって読み進めていた。

私は不器用な人間である。アナログの文章を目の前にすると文字を全て順番通りに読み進めないと気が済まないのだ。それは雑誌も然りである。文字を読みながら対応する写真を正しく順番通りにみる。

坂本龍一は10年ぶりに新譜を発表したようだ。インタビューの内容から推測すると彼にはデカダンス的な傾向が生じているのだろう。音楽は奏でるものではなく、聴くものだと語り、よりプリミティブな音源を求めてモノとモノが擦り合わされた時に生じる音をサンプリングしたと語っている。つまり彼は音楽を作りながらもインスタレーションを強く意識しているのだ。なかなか理解は難しい作品なのだろう。興味はあるがおそらく自分のための音楽ではなさそうだとインタビューを見る限り感じた。

さて、図書館の雑誌コーナーは3階の窓際に存在する。フロアは長方形をしており、短い方の側面を全面ガラス張りにしている。読書用の椅子やテーブルはガラスと向き合うように配置されており、そこに座れば外の風景が大胆に観られるように設計されている。

四月も下旬に差し掛かり、緑は寒い時期に蓄えたエネルギーを今かと解き放とうとしている。目の前に移る木々は新緑に加え、枝先から若干の赤みがかった葉が成長していた。印象派の絵画でよく観られるような配色である。木々には光が満ち、葉から反射した光は僕には白く認知され、若干白味がかかった葉たちは、清潔で朗らかな印象を僕に与えた。

僕は思わず雑誌から目を離し、外の風景を凝視してしまった。木々が強風によって枝葉を大きく揺らめき、それによって乱反射した白熱光が恐ろしくダイナミックに輝いていたのだ。それはまるで自立した意思を持つ海底の生き物のようだった。

私は外に出て、その眺めを観たとしたら、これほどまで惹きつけられなかっただろう。外を歩けば人々の雑踏の中で、木々を揺らす風が吹き抜ける音が聞こえ、揺らされた木々の擦れ合わされる音が聞こえたはずである。それは視覚と聴覚が一致しており現象は何も意外性がないはずだ。風が吹き、木々は揺れた、そして音が生まれたのである。

僕はその光景を人が雑誌のページをめくる音が聞こえるほどの静けさの中で観たのだ。するとどうだろう、風に揺らされたと判断したが、はたして本当に風は吹いているのかと疑問に感じられる。それを保証する聴覚の情報はどこにもない。もしも風が吹いていないのならば、いよいよ木々は自らの意思を持ってより太陽の光を求めようとその枝葉を懸命に動かしていたのかもしれない。僕は無音の中でダイナミックに揺れる木々を眺める中で、木々が生命を持っているという考えが強くなっていったのである。

その妙さに僕は思わず雑誌から目を離し木々み長く見つめてしまった。日現実性はこのような場所に潜んでいる。そして、坂本龍一のいう、モノの発するプリミティブな音の存在の価値というか日常における重要性をひしひしと感じたのである。

 

失礼します。

 

ひどい文

文章を書くのは得意だと少なくとも今週三回は発言したが、今日自由作文をすると驚くほど筆が進まなかった。

どこに行った俺の文よ と心の内で叫ばずにはいられない。

 

かなりショックを受けて、帰り道にパッとしないとんこつラーメン屋に入った。ディナーセットにはらーめんに加えて餃子とご飯が付いてくるようなので、セットと瓶ビールを頼んだ。

俺はほとんどらーめんに手をつけなかった。気づいた時には表面に油の膜が張っていたし、麺は伸びきってしまった。

俺は一心不乱にはてなブログに投稿した自身の記事を見返していた。

ただの駄文の上に、斜に構えているという読者のことをまったく意識していない記事を読むにつれ、気持ちは次第に穏やかになっていった。

ああ、こんな文章書いてたやん

俺、かけるやん

よかったよかった

安堵に近いのかもしれない。けれど俺の気持ちの支えはすっと消えた。

以下 目に止まったセンテンス

 

車が急には止まれないように、性格を急に変えることはできない。

 

そうだ、性格は急には変えることはできない。俺は俺として間違いなく存在してる。自己同一性は保障されたわけだ

 

最後に

ポジティブに生きよう。コップには水が16分の1も残っている。

 

さようなら。