自傷する女の子
自傷する女の子に自傷することは悪いことじゃないと言うことがある。
そして、いつも、どの口がそんなことを言う権利があるんだろうと深く考えて、ふさがることがある。
言論の自由。子供っぽいけど頼らずにはいられない。
僕は自ら自分の身体を傷つけたりはしない。する必要がないからだ。シンプル。簡潔。おしまい。
そうはいかないから世の中世知辛い。
なんで自傷するのだろう。実は今文章を打ちながらそれらしいことがひらめいた。
なんだよ、思いつきの論説かよ。俺暇じゃないだ。
知ってるよ。もちろん僕だって暇じゃない。
思いついたことを話す権利。これを失うと誰も口をきけなくなる。そして悲しくて手紙でも書くんだろう。ね、そこまで悪いことじゃないでしょう。
閑話休題。
僕は今までに3人の自傷する女の子と仲良くなった。そして、3人のこと関係を持った。特別なことじゃない。よくある話だ。
長く彼女たちと付き合っていると確かな共通点があるなと思う。
彼女たちはあらゆる物事で自分を規制する。理解に時間がかかる内容だと思う。彼女たちは、日常生活のあらゆるポイントで些細な決まりごとを設けて自分を規律の中に置こうと努める傾向がある。
枕を絶対に直に地面に置かない。
電気を消す時は一度消して電気をつけ直し、最終的に電気を消す。
書き出そうとすると意外にいい例が出てこない。申し訳ない。
共通するのは、あえて行動のステップを増やしたり、意味のないルールを設けて余分な労力を使用している。
なぜ。
彼女たちは、自分という存在を認識し、手で触れて、安心したいのだ。
その手段の一つなのだ。
理由もなくたくさんの男に抱かれようとする彼女や
宗教を強固に信じて自己矛盾に苦しむ彼女は
みんな、自分という存在をはっきりと認識したいのだ。
その延長線上に自傷という行動のがあるのだろう。
男が自らの精液を飲んで安心するように
彼女たちも自らの体から流れる血を見て、手にとって、舐めて、匂いを嗅いで、そこにある自分を感じているのだ。
ごめんなさい。
嫌いなもの。 レジの会計について。
レジの会計で明らかに手を抜かれていると、むっとするというか、心が侘しくなる時はないだろうか。
これは一般的な話ではなくかなり個人的な話なので、かなり退屈かもしれない。ごめんね。
なんで悲しくなるんだろう。なるべく簡潔に答えると、
一人の人間として扱われていないと感じるから
だろう。誤解しないでほしいのは、僕はサービスがなってない。客は神様だぞ。ふざけるな。とプリプリしているわけではない。そういう人は一定数いるようだ。すごく現実的な側面で彼らは自分のことが大事なのだ。
意味ありげにクレジットカードを渡す
一括払いで問題ないかと聞くと、余計なことは聞くな、当たり前だと顔をしかめる
彼らは現実的な側面で自分のことが大事なのだ。僕はそういう人もいると割り切って私情をレジに入れ込まないようにしている。無感情になるのではなく、慈悲の心を持って接客している。 そういう大会があればかなりいい線までいくんじゃないかな。
僕は彼らとは違う、あまり社会的な地位に神経質になったりしない。そもそもそこまで自慢できるものじゃない。来月の家賃を払うめどすらたたない惨めな学生だ。毎月借金が増えていく。漠然とした不安がつき待っている。できれば社会的な地位の話なんてしたくないなだ。
僕はもっと静かに、ひっそりと心をいためている。レジを打つ人間はそんなことに一切気づいていない。僕のことなんて次の客が現れれば顔すら忘れてしまう。それは仕方ないことだろう。客の顔を全員覚えとけって言われても困る。もっと有効な脳の使用方法はいくらでもあるに違いない。
人と人が接するのだから、それはある意味会話の1つなのだ。だから、いらっしゃいませ、ありがとうございましたも本来は相手に感謝の念や意思を伝えるための言葉なはずだ。
それを相手を意思することなくシステムの中のタスクとして発するのならば、言葉の浪費だ。言葉の浪費。新しいジャンルの言葉だと思う。高度資本主義社会は時間の浪費を神経質にきにするが、僕はカウンターとして言葉の浪費を意識するのだ。
めんどくさい話は置いといて、せめて相手の目を見て話してほしい。言葉は方向がないと離散する。
鹿とニワトリ。彼女が号泣した。
二人でラーメンを食べて、さーて俺の家帰ろうかーって言いながら自転車にまたがった。
いやに寒かった。一日中曇っていたから夕暮れ時でも寒い。
アイス食べようか。と僕が聞くと
アイス食べる。カフェオレも飲む。と彼女は答えた。
僕の家に帰る途中に、スーパーに寄ってアイスを買った。僕はメロンのラクトアイス、彼女は爽の期間限定のアイスを選んだ。
彼女は上機嫌だった。
爽はチョコとバニラ味のアイスがチェック状にしきつめられていた。それを見た彼女が、これラグっぽい。と言いだした。
この15分後に、彼女が道端でワンワン泣きじゃくるのを僕たちは知らない。
アイスを買って上機嫌な彼女はずっとラグの話をして自転車を運転していた。
「うちのラグね、鹿の子毛調風だよ」
彼女はただその一言が言いたいだけだった。なんなら鹿の子毛調風を言えたら満足だったんだと思う。
これは僕と彼女の会話ではなく、彼女の自己満足に近かった。お互いそういうことはよくある。もしかしたら誰しも程度の差こそあれ似たようなものなのかもしれない。
問題は、彼女の滑舌がとても悪いということだった。
僕の彼女はとっても滑舌が悪い。注意を忘れると、ありがとうございました すら噛むときがある。
ありがとごふぁあむ
ありぐふ
あふ
みたいに噛む。最後のありがとうございましたは書店員の彼女にとって致命的だろう。
鹿の子毛調(しかのこけちょう)
確かに難しいポイントがいくつかある。
実際に声にだして発音して欲しい。
すらっと言えたあなたは、何度も繰り返して欲しい。
「しかの こけちょう」になっていないだろうか。
正確には「しかのこ けちょう」だ。
鹿の子の毛調だからだ。
こけちょうと聞くとニワトリみたいだと思う。僕は奈良の放し飼いにされている鹿のことを想像していた。ほんとうに太々しい。奈良公園と書かれたモニュメントの前で膝を折って伏せているのだ。僕が餌を持っていないことを確認すると、断固として僕に視線をやらない。永久に左斜め上の空を見つめている。ここまでくると意地のようなものすらあるだろう。
僕は奈良から引き離された。そしてまったく知らない農家にやられて、屋根の上を眺めている。朝日が眩しくて僕は手で影をつくった。
ニワトリだ。ニワトリがいる。うるさい。
僕は鹿と戯れていたはずだった。少し悲しくなった。実際のところ、無愛想な態度がちょっと気に入っていたのだ。
彼女は案の定、しかのこけちょうふうが発音できていなかった。
しかのけ、、あ、、
しかのこちょ、あ、、
しかのち、、あ、、
自転車でまっすぐの県道を走りながら彼女はずっとふごふごしていた。
そしてある重要なポイントに至った。
しかのこけ、ちょう?
しかのこけ?
しかの こけ?
こけ、こけ、、
こけ?
ニワトリだ。ニワトリがいる。うるさい。
僕はまったく知らない農家にやられて、屋根の上をまぶしそうにしながら眺めている。
「いいかい、しかのこ けちょう だよ。しかの こけちょう じゃない。それだとニワトリになっちゃう。問題はそこにあるんだ。ニワトリの方が発音しやすいんだよ。ただ僕たちは鹿の毛の話をしているんだ。」
彼女もなんとなく気づいていたはずだ。だから発音できなかったのだろう。しかの こけちょう は発音しやすいけれど、意味合い的におかしい。
こ と け を連続しないように注意して。と言うと、彼女は初めて満足がいくしかのこけちょうを発音することができた。
僕はほっとした。もしかしたら帰ってからもニワトリのことを考えさせられるとおもったからだ。どうやらその心配は無くなったようだ。
彼女はなお、上機嫌になった。満足に発音できたから。家に帰るとアイスが食べられるから。
彼女は調子にのって何度も何度も鹿の子毛調風と声にだして、自転車を漕いでいた。いつもよりちょっとペースが速かった。彼女は路肩は走らずに必ず歩道を走る。歩道で走るにはあまりに速度が出ていた。
僕の家は片側三車線ある太い県道から一本脇にそれた道にある。深夜になっても大型バスがガタガタと音を立てて走るし、バイクがバルバルと音を立てて走る。最近はずいぶん慣れだが、越してきたときは眠れなかった。
彼女は目的地付近まで県道で達したので、ハンドルを右に切り、脇道にそれようとした。
その時、30センチほどの段差に正面から衝突した。彼女は前方に投げだせれ、コンクリートの段に顎から接触した。
(近いという理由で僕がよくいく喫茶店の前だった。仲のいいおばちゃんが二人できりもりしている。お客はもっぱら近所のおじいちゃんおばあちゃんたちで、持て余した時間を殺すためにおしゃべりに来ていた。僕はその雰囲気を気に入っていた。彼らは長く生きただけあって配慮の加減が適切だ。基本的に放っておいてくれるのだが、食べ物をサーブする時や会計をする時、退店する時にちょうどいい言葉をかけてくれる。不思議なことに気持ちいい気分になる。もしかしたら 僕だけかもしれないけど。)
見た目はかなり間抜けだった。だって、コンクリートに大の字にベタっと仰向けになってるんだから。
うわ、馬鹿みたい。
と思った、次の瞬間に僕は自転車を横に投げ捨てて彼女の元に走った。彼女の足が自転車のフレームに絡まっていたので、自転車を身体から引き離し、自転車を立てかけてから、彼女を引き起こした。
彼女は無表情で、痛い。と言った。
彼女らしい。と僕は思った。
経験でわかる、あの速度で顎から落ちたら死ぬほど痛い。
僕はとっさに彼女を抱き寄せて、頭を撫でた。そして泣いていいよと耳元で囁いた。
すると彼女は堰を切ったように、いたいーいたいー。と泣き出した。
いたいーえーん
あごいたいー
もうしかのこきらいー
しかー
えーん
..........
アイス食べる...
うん、アイス食べようと僕は言った。
道端に投げ出された僕の自転車とその横で泣いた女の子を抱く男の子をみて、歩行者道を渡ってきた人々は僕だちを珍しそうに見ては、通り過ぎていった。
月面に立つ 回想の前の前提条件
二つの出来事を回想しようと思う。その前に一つのお話を理解しておいてほしい。
僕は今物悲しい男が登場する物語をを読んでいる。もしかしたらあなたはユーモアのある作品であると読み終えた後に判断するかもしれない。それは個人の意見であって僕がどうこういうことではない。一般的な印象としてはかなり示唆的なお話だ。
主人公の男性は他人と対峙する時に、いかに客観的であるかを重要視する。つまり、パーソナルなこと、主観的で感情的なものを排している。彼が他人に話すことは
昨日スパゲティカルボナーラを食べた
2年前に猫を飼っていた
スキーをするのが好きだ
とか。彼にとって変わりようのない事実だ。
彼はそういう点でかなり公正な人間だし、社会的適合性を持ち合わせていたし、なんなら女の子を口説くユーモアを持ち合わせていた。しかし、彼の客観性を保とうとするスタンスは彼を変人とか、一風変わった人間だとか、相容れない存在だとか接する人に思わせる結果となった。彼は孤独なのである。
きっと彼は、すべての人間から不気味がられていればよかったのだ。そしてうらぶれた居酒屋のカウンター席でひっそり酒を飲み、ひっそりと本を読んでいればよかった。あるいは北海道の中標津で季節の移ろい感じながらら晴耕雨読の生活をおくるのが幸せなのだと思う。
幸せなことに(あるいは不幸なことに)、彼の身の回りには彼の客観性を正確に感じ取り、何かしらの魅力を感じて近寄ってくる女性がほんの僅かにいた。具体的に数と期間を数えると1年に一人くらい。彼女たちは必ずと言っていいほど彼の家に任意のタイミングでやってきた。彼を必要としたからだ。必要とされたものが何であるかを具体的に説明することできない。強いて言うならば、彼の生き方や彼の人間性のコアに惹かれるものがあったのだろう。そして、彼も彼女たちを必要としていた。性欲を発散するためでも、所得を増やすためでもなく。
彼女たちに共通することがある。
彼女たちは彼を求めていた
彼女たちは彼に何かを伝えようとしている
彼女たちは必ず彼の元を去っていった。突然に。それも傷ついて。
彼は、彼女と接する時、何かをすり減らすような感覚を覚える。しかし、彼は彼女が自分よりももっと酷く身をすり減らしていることに気づいている。彼は彼女に様々なものを与えようとしたのだが、それは無駄になることを知っている。
彼女は彼の脇に乳房をつけながらいう
「あなたって月の住民みたいよ。はやく月に帰りなさい」
「ねえ、私ね、あなたといるととても安心するんだけど、どんどん私自身が薄くなっていくような気がするの。まるで月面に連れて行かれたみたいに」
彼は彼女に毛布をかけながらいう
「実際のところ、月面には空気というものがないんだ。だから薄いもなにも、そもそもそんなことはありえないんだ」
素敵な会話だと思う。僕だけだろうか。減量を終えたフェザーライト級ボクサーを思わせる。禁欲的で、素直で、クールで、ちょっと愚かな感じがいい。
その数日後、彼の元に一枚の絵葉書が届けられる。差出人の名前はなかったが彼は一目見て誰がこの絵葉書を自分によこしたのかを理解することができた。それは月面を大胆な構図で写した写真を使用していた。彼曰く、誰が見てもなんともない写真である。しかし彼と彼女の間において、写真は蔑ろにできない意味合いを持つ。絵葉書には「今付き合っている男性と結婚することにした。もう会うことはないだろう」とだけ書かれていた。すでに決められてしまった確かな事実と、文句のない推測が簡潔に彼に提示されたのだ。
彼は感傷的にはなっただろうが、それをなにかに発散することはなかった。彼は、あまりにもそういう類の物事に慣れ過ぎてしまったのだ。彼にとって大事なことは、これまでの複雑な事象を遠くかららざっと見渡して、法則性を見つけることだった。
彼は考察する。彼女たちはいったいなにを求めていたのか。どうして何かをすり減らして去っていってしまうのか。僕にできることはなかったのか。
"僕の中には一方通行の入り口と出口がある。出口から入ってくることはできないし、もちろんその逆もできない。彼女たちは入り口から入ってきて、僕の中にとどまり何かを求めようとする。そして、彼女たちは何かをすり減らして出口から去っていくのだ"
彼はこう物事を一般化した。全く問題はない考察だと思う。反例はないし、ある程度普遍的であるようだ。結局彼は孤独なのだ。彼はその年34歳になる。やれやれ、いったいいつまで僕はこんなことを続けなきゃならないんだと考えながら、パスタを茹で、缶ビールを半分飲んで流しに残りを捨てるのだ。
月面に立つ
僕は彼女と少なからず20回の別れ話をしている。その全てが状況は異なるが、彼女が切り出してきた。
二人で抱き合った朝
インターンの帰り際
自室で寝ようとしている時
本当に状況は様々で、それぞれがかなり話がこみいっていた。一生涯に経験する平均的な別れ話を二十代の前半で経験してしまったのではないかと漠然と考えてしまう。ある短い間に残虐で暴力的な経験を詰め込むようにした人間は、どこか大切な人間性のコアを歪めてしまったように思わされる。僕が見てきた人間は共通してコアの歪みに程度の差はあれ、負い目を感じていたし、外回りの見た目で覆い隠そうと注力していた。
僕の彼女もその一人だった。彼女は何層にも何か(残念だけれど言葉にするのは非常に難しい、確かなことは、それは偶然得られるようなものではなく、強い意志を持って選択されたものだ)を外部に塗りつけて、なめらかになるように曲面の凹凸を磨いていた。それは僕にザッハトルテの製造過程を思い起こさせたし、ツヤのある木製の家具を思わせた。
どうして僕は彼女の別れ話を受け入れないのだろう。あるいはこれからも。別れ話の中には懇願のようなものもあった(多くは冷静でビジネスライクなものだったが)。もしも自分の愛する人間が、傷つきスポイルされようとしていていて、自分を保つためリカバリするために別れを懇願するのならば、正常な人間ならば、相手の心身を気遣って別れを受け入れるだろう。そして心を傷めるのだはないだろうか。僕が経験してきた男女の関係を一般化した場合、そのようなことが起きるのだと考えている。わりに僕は無差別に偏見を持たずに情報を受け入れるタイプだ。おそらく一般化したと言ってもさしつないだろう。
僕は一般化された人間とかけ離れた人間だろうか、決してそうではない。僕はなんらスペシャルな特性を持ち合わせたいるわけではない。他人が僕をどう判断しようと、僕は平凡で凡庸な意志しか持たない。自立性が不足しているのは否めない。ただ僕は公園の隅のブランコみたいにありきたりで、一目見れば大体の特性を把握できるような人間だ。
僕が彼女を失いたくない(どれだけ彼女が熱意を持って別れを求めたとしても)理由はいくつあるだろう。ざっくばらんに俯瞰してみてもソリッドな個数は把握できないように思われる。というのもそれぞれの理由が、少なからず関係を持っており、ここまでは一つの事象だね。と切り離すことが困難だからだ。パン生地をヘラで綺麗に等分するように小気味好く切り分けられたならもっと簡潔だったはずだ。これはきっと仕方のないことなのだ。僕は山の連なりをを俯瞰して、あれは御岳山だ、あれは乗鞍岳だと断定するしかない。長く北アルプスに暮らす住民にとって乗鞍岳と御岳山の境目の位置はそれほど重要ではない。地形の隆起に大まかな名前をつけることが必要なのだ。いささか便宜的とも言えるかもしれない。
大まかな事象をピックアップすることに努める。
僕は彼女を救いたいと思っている
彼女の地に脚ついた生活感は僕を安心させた
彼女の社会的欲求の強さは僕をソフィスティケートする
彼女は僕から離れようと努めている
書き出してみると、かなり微妙な話に収束しそうで身震いをしてしまう。僕は彼女を長期的な視点で得ようとしている。あなたは目を背けるかもしれないけれど、そこにはかなり現実的でビジネスライクな理由も含まれているのは事実だ。彼女は僕に与えるものはないと感じているかもしれない。しかし、僕は彼女から得られるものは計り知れないと確信している。彼女の強固な意志は融解する可能性はあるが(実際僕はそれを求めている。彼女はあまりにも強固だ。他人に頼ることなく孤独に生きうことが彼女の美徳となる。あるポイントに落ち着いていることは僕が見て明らかだが、根本的な解決は融解をもってしか得られないだろう。これはかなり骨の折れる話だ。僕が焦ってことを進行しようとすると、当然ながら強い抵抗が発生する。もっとも堪えるのは彼女自身なのだ。僕が他人のコアな部分に立ち入るのは軽率なのかもしれない。ただ、何も手をつけられないまま生きていくことといつか彼女はスポイルされるだろう。内面から崩れ落ちる日が来るかもしれない。僕は彼女のそばにいなくてはならないのだと強く感じている。他人にそれがエゴだといわれようと。)きっと長い間、その姿は保たれ強固になるのだと考えられる。僕は彼女の分厚い鎧のことが嫌いではない。彼女がもがき苦しみながら構築してきたそれはかなり良くできているし、見ていて魅惑されるものがある。
読書すること
最近読書を集中してすることができない。
なんでかはわからない。
あまりに僕が怠惰だったからあらゆる感情の揺らぎを体が本能的に拒絶しているのかもしれない。
所謂カウンターカルチャー的衝動か。
そう思うと、意外と悪いものじゃないかもしれない。