失禁と安倍首相、ひとつの啓示

こんばんは。酒井要人です。

新年あけまして、おめでとうございます。

大みそかの夜、僕は鈍行を乗り継いで東京から実家へと帰省をしました。途中、熱海から浜松まで乗り換えなしの区間があり、三時間程度座席に座りっぱなしでした。座ってじっとしているくらいなら半日余裕な僕ですが、徐々に尿意が増してくるのを暗に感じていました。それは、まさに悪い知らせであり、遠くのほうからのっそりのっそりとやってくるのです。

浜松に到着する20分前には僕の感情は無になっていました。足を組んだだけで膀胱が圧迫されて漏らしかねない状況にまで追い込まれていたのです。椅子にちょっと深く腰掛けて、全身の力をできるだけ抜く。この状態を保ちながら、淡々と時間がたつのを待ちました。僕は神を信じたことはないのですがその時は思わず「神よ、祝福してください」と窓から見える天を仰ぎました(三時間後に初詣に行き、お汁粉食べてほくそ笑んでました。神様は安倍首相ばりの寛容の心をお持ちなので、僕を許してくれるでしょう。)

人間、たくましいというか狡猾なもので、もし電車のなかで「もうおしまい(笑)」となった時の対処法を何パターンに分けて考え始める僕がいました。この時点で膀胱のキャパシティー限りなく透明に近いブルーというか限りなくゼロに近い有数となっており、あと10分で浜松駅に到着するところまで電車は進んでいました。「いける、、!、いけない、、!」のせめぎあいが脳内で活発に行われる中、厳かに脳内の別の部屋で、もし我慢できなくなったらどうするかという会議が粛々とおこなれ始めました。

もし電車がつくまえに失禁しそうになったら

「列車と列車の連結部に逃げこみ、他人からは見えないポイントでペットボトルに用を足す」もしくは「潔く漏らす」というどちらにせよ「人間の尊厳Dead or Dead」な結論に至りました。

電車内の放送が「次ははままつ~ はままつ~」とアナウンスをしたとき、僕は勝利を確信しきれませんでした。時間的にはあと五分、常人の膀胱であればやすやすと我慢できるでしょうが、すでに僕の膀胱は限界を迎えていたのです。その場で10㎝くらいの小ジャンプをしただけで膀胱には深刻なダメージとなります。僕は間違いなく浜松、いや静岡全土の人間のなかでカースト最下位にあったことでしょう。小学校低学年の女の子に手を引かれただけでその場にうずくまることになるでしょうし、赤ちゃんを抱っこするだけでも深刻なダメージとなりうるからです。もう一度言いますが、僕は生まれたての自立性のない赤子よりも、か弱い存在だったのです。電車の中という密室でおしっこを我慢するということはつまりそういうことなのです。赤ちゃんの顔の造形は自然と母性をくすぐり、「あ、世話したらんと」という感情を引き起こすそうですが、三日間ひげを剃っていない清潔感のないオタク顔の僕は、他人の力を乞うことすら絶望的でした。

結果として、僕は助かりました。僕は生きながらえたのです。階段をめっちゃ内股でおりきったとき、トイレがすぐ真横に設置されていた時は神に感謝の言葉が出ました。神は僕を見捨てはしなかったのです。あんなか弱く清潔感のない僕でも神は天から見守っていてくれたのです。友達のキリスト教徒が意気揚々と語っていたのですが、キリスト教はすでにイエスの後を追う時代が終わり、日常生活に溶け込んで生活する新たなる神を発見する段階に至ったといいます。「神はもう我々人間の中にいらっしゃるのだ、私たちはイエス様のときのような過ちを二度と起こしちゃいけないんだよ。」と彼が発言するのを「めっちゃ甘いもの食べたい、、!」とアイスのことばかり考えていてろくすっぽ聞いてなかったのですが、極限まで追い込まれた僕は彼の言葉はある意味啓示のような力をもち頭の中でこだましたのです。

話をまとめてしまうと、いい年した大人が新年を目の前にして失禁しそうになったという話です。最近膀胱がゆるゆるなんですけれど伸びきっちまったんでしょうか。 

みなさんよいお年をお過ごしください。

さようなら。

 

 

 

 

美味しいビールはいかが。

僕はいまあるヨーロピアンビールバーでうまいベンジャミンエールを飲んでいる。ベンジャミンエールってなんだと君は思うだろう。

美味しいビールだ。

オランダの新鋭ブルワであるmikkererのrice market Copenhagen というビールである。君はライス?コペンハーゲン?といぶかるだろう。

オランダの首都の米で作ったビールだ。

簡単に言うと、

美味しいビールだ。

三軒茶屋駅を降りてすぐの路地に入るとうっすらと湯の花の匂いがする。あまり清潔とは言い難い外観の銭湯がそこにはある。あたりは暗く、人通りもない。

そんな路地にひっそりと佇むビアバーがpiggale Tokyoである。店内からは暖かい好色の光が漏れだし、店頭ではペンキが剥げ落ちたピエロがにっこり微笑んで客を招き入れている。

僕は数年前にこの店を見つけ、いつか訪れたいものだと考えていたのだ。

今日はクリスマス用に特別に醸造されたブラウンエールが生で繋がっているそうだ。クラフトビールはシーズナルにその味を変えるのが魅力である。

今日はまだまだ飲むのだろう。

夜行バスの中でうなだれるようにしてシートにもたれかかる姿が想起される。

簡単に言うと美味しいビールだ。

お弁当は世界を救う、そう今日から信じることにしました。

僕は朝、彼女に頬を叩かれて目を覚ました。

容赦のない平手打ちだった。一瞬で目がさめるかと思いきや、自分の体温と同化した布団は優しく僕を眠りに導いた。

彼女はひとしきり頬をつねったり、唇を引っ張ったり、フードを鼻元まで深くかぶせたり、僕にちょっかいをかけた後、「さて、勉強してくる!ちゃんと学校行きなよ」と玄関から声をかけた。慌ただしく靴を履く音が聞こえ、僕はちょっと急いで、「うん、いくよ。」と返事をした。その直後に、玄関が閉まる異様にでかい音が響き、また部屋に静寂が戻った。昼間に近い朝だ、嫌になる。昼間の光は寝起きの人間をダメにする。なんだかひどく重々しくて清潔さがない。不浄の光。そんなフレーズをつけて、少しばかり気の毒になった。

さて、昼まで寝るか。

学校にいく気はさらさらない。

僕は微塵も彼女に申し訳ないという気持ちを感じなかった。これは自己責任の問題なのだ。他人はそれに対して、べき、必要がある、と必要性を求めることしかできない。とにかくこれは個人的な判断に任されている。彼女に罪悪感を抱くのもおかしな話だ。

尿意を催したため、トイレで用をたしてから一杯の水を飲み、二度寝を敢行すべし。と自らに言い聞かせた。

僕は布団を上半身までヒッペ返し、するっと脚を布団から抜いた。最初は左足、次は右だ。立ち上がり、キッチンを通り過ぎ、トイレに向かう。

なんかある。

キッチンの前におかれた二人用のダイニングテーブルに見慣れない手提げ鞄が置いてあった。彼女が置いていったことは明らかだが、テロの可能性も十分に考えられた。なにせ僕は就寝中玄関に鍵をかけない。僕の部屋は常に外と開けっぴろげにつながっている。経験上、メリットもなければデメリットもない。鍵をかけようがかけまいが、家に強盗が入るわけでもなく、朝ごはんが用意されているわけでもないのだ。

で、これである。謎の手提げ鞄だ。

麻地で深い紺色、色味は悪くない、作りもしっかりしている。ところどころ繊維がほつれていた。

僕はとくに警戒するでも、期待するでもなく中をのぞいた。中には同じ柄の保冷袋が入っていた。

あ、お弁当じゃん。

ちょっと意外だった。どんよりとした昼間の雰囲気が一転したように思えた。さて、ここからが君の活動時間ですよ、と判を押されたように、パン生地をヘラでスパッと分割するように、その瞬間、何かが終わり、何かが始まったのである。

 

僕はこの変容ぶりに若干困惑したのである。

以降、卓上に置かれたお弁当による僕の心情の変化とお弁当の意義について考察する。

僕がお弁当を見て真っ先に考えたことは、学校に行かなきゃということだった。僕が最近まともなものを食べていないことを知っていたから、お弁当を作ったのだろうが、もし僕に栄養価の高いものを食べさせたいのであれば、僕の家で料理をこしらえ、卓上を食べるだけの状態にすれば事足りる。お弁当を用意することは、あらかじめ持ち運ばれることが想定されている。つまり、お弁当を作ることの労力に僕が敬意を払い労うためには、お弁当を正しい時間に正しい場所で食べることが必要なのだ。ただし、それは強制されるという感覚を与えることはない。お弁当から感じられる愛情や、学校で食べることを意図して作られた内容を、僕は無下にはしたくないし、単純にありがたく思うからだ。

そういう点でお弁当は恐ろしくよくできたツールだと実感した。お弁当はコミュニケーションツールになり、かつ、人の行動を制限し、促し、導くツールにもなりうるのである。

お弁当はポジティブに人のココロを価値変容させる力を持つ。

 

そして、数分後、学校にいく支度を済ませ、玄関を潜ろうとした時、あることに気づき、驚愕した。

お弁当は持ち主に返さないといけない。しかも、弁当箱は習慣的に使用されるものなので、常識の範囲内でという制限が加えられている。僕は学校から家に帰り、彼女の空いている時間を確認して、返却しに家にいくことがいま決められたのだ。

もしも、意図してお弁当をつくり、卓上に置いていったのであれば、狡猾さが伺える。

僕は学校に向かいながら、ちらと弁当から垣間見える策略に震えたのである。

 

 

 

仏教とサルバトーレ・ダリ

僕は気の利いた文が書けません。

言葉を扱う際は、読み手を思いやり、そして、誠実であることが僕のモットーです。

母方の実家は内陸のまあ辺鄙な場所に家を構えているのですが、そこのトイレを使ったとき、壁に地元新聞社が年間購読をしている顧客に配布するカレンダーがかけられていました。

カレンダーは縦に長細く、フォントやレイアウトから恐ろしく仏教色の強さを匂わせていました。

そこには墨字ででかでかとこう書かれていました。

 

言葉が少ないことが良いのではない。真実を話すのが大切なのだ。

 

僕は便座に座って用をたしながら、感銘を受けました。よくぞ言ってくれた、偉い!と文の主人の肩を叩いた後に強く抱きしめたい衝動にかられました。しかし、ズボンを半おろしにして便座に座る僕はあまりにも無力でした。どんな合気道の達人でも腕組みをした状態からは奇襲に応対できないそうですが、間違いなく僕も腕組みに準じる無抵抗な状態でした。トイレの便座に座る合気道の達人と、腕組みをする合気道の達人を真向かいに配置して戦わせたらどうなるのでしょうか。ポケモンで例えると、コクーンイシツブテが交互にかたくなるを繰り出す近年稀に見る泥試合になるのではないでしょうか。

そんなことは置いておいて、僕は強く感銘を受けたのです。

僕は多く話せば話すほど、相手に嘘ばかりついているのではないかと不安に駆られていた時期があります。成人し、ある程度社会的な経験を積んできたので、今となってはタテマエというものが僕と君の間にはあってそれを尊重しなくてはならない場面もあるんだということを長い時間をかけて飲み込んできました。会話は時と場合で変化して、場合によっては真実を話すことが不適切なことがある。きっとそういうことでしょう。つまり僕はただたどしくはあれど、会話の柔軟性を身につけたのです。 

しかし、当時の僕はテクニカルな会話ができない、というか、タテマエという存在すら知らなかったのでずいぶんと他人との衝突があったり、人の言うことが理解できなかったりと精神をズリズリすり減らしていました。相手を尊重する手段を僕は嘘をつかないことしか知らなかったので、場合によって会話にミスマッチが起こりました。僕は何を話せばいいんだろう、ひょっとしたら無理にでも話を合わせて笑みを作っていればいいのかもしれない。そう考えました。そうして僕は、相手が話すことを一言一句聞き逃さないよう耳を傾け、ただ当たり障りのない返事をする比較的無口なスタイルに変容していきました。

ふらっと入ったビレバンに、「会話は8割が嘘」というタイトルの新書が平積みされているのをちらっと見かけ、別に手に取るわけでもなくその場を立ち去ったのですが、どうしても頭からそのタイトルが離れませんでした。ベットに入って毛布に包まりながら、ああ、そもそも僕がどれだけ気を使って言葉を選んだとしても、その多くは嘘にちがいないのだ。みんなは早い段階でそれに気づいたから何も心を傷めることなくあんなに楽しそうに会話しているんだ。と考えました。その考えは意外と不安な気持ちになることはなく、比較的すんなり僕の中に溶け込みました。ある意味諦観のようなものでした。僕は自分の発言に心を傷めることは無くなりましたが、その代わりとして言葉の色を失ったのです。なんだかその後、フォースの力に溺れてダークサイドに堕ちるのではないかという悲劇的雰囲気を漂わせていますが、安心してしてください、ちゃんと普通に大学生をやってます。就活に四苦八苦してのたうちまわっています。

(書いていて思ったのは、自伝で幼少期に不遇な人生を送る話は、最後にほぼ必ずハッピーエンドで終わるのではないかと思います。言い直すと、悲劇的な幼少期を描く自伝小説は必ずハッピーエンドになるから安心して読み進めめればいい。ということです。悲劇的な出来事があり、ダークサイドに堕ちるまでの思考の飛躍として、主に記憶の捏造や自己肯定が挙げられますが、ダークサイダーにとってその過去は現在の自分の身を脅かすものであって他人には決して知られるべきではない情報です。ナチ党の党首であるアドルフヒトラーは自伝、我が闘争において自分の幼少期をこれでもかというほどに偽り、美化をしています。彼は若かりし頃、パンひとつかうことができない惨めな画家でした。シュリアリズムの巨匠サルバトーレダリも自伝において、幼少期の事実を美化しています。彼は優秀ではあれど、ホモセクシャルを社会的に隠して生きる哀れな少年でした。スターウォーズのダースベイダーに至っては人間の言語を使用しようともしません。彼も過去を肯定することなく生きる哀れな人物の一人なのです。このことから、どうやら自伝において幼少期が悲劇的なものはダークサイドに堕ちることはほぼないのだと考察します。)

 

疲れたので後日書きます。

おやすみなさい。

性格はすぐには変えられない

お久しぶりです。かなとです。

今週末は、長野の山奥の牧場で自転車に乗っていました。積雪が15cmくらいある上に、牛の糞がふんだんに練りこまれた土のコースでした。身体中が糞まみれのオタクを愛してくれる稀有な女の子いませんかね。

なんとなく暇なのでそこはかとなく文章を書きます。

僕の持論から話します。嫌いな人は嫌いって意思表示した上で、記事を読まないでください。

「性格は年単位でしか変化しない」

と考えています。

さらに言うなら、思想が変わるのは月単位、習慣が変わるのは週単位みたいな特徴があるように僕は考えています。

これは比較的一般的な話なんでしょうか。

こんなことがありました。

僕が13の時に、学校の同級生にちょっかいをかけて泣かせてしまった。僕が相手にごめんなさいと謝った上で、仲介人の先生が、かなとは今後どうするんだ。と聞きました。

僕は「人を傷つけるようなことは控えます。けれど僕の性格はそう簡単に変わりません。なので徐々に変化させていきます。」と答えました。

先生は納得がいかないようで「徐々に変化させる?今この場から変えないとダメだろう。バカなことを言うな。」と熱を込めて言いました。

僕は先生の言うことが、どれくらい本気なのか疑わしくて、じっと目を見つめ、微妙な所作を逃さぬよう注力しました。

結果として、先生はタテマエのようなものはなく、本心を発言したのだと判断しました。(加害者である当人が偉そうな口をきくなという意図が含まれていたのかもしれません。)

今でもよくわかりません。タテマエとして発言することは容易いですが、実際は性格をすっと変えるのは困難なはずです。はずなんです。

本屋さんに行くとすぐわかりますが、本屋には必ずといっていいほど、ビジネス本や自己啓発本が棚に陳列されています。感覚的な話として、日本の出版社から公式で発行される本の2割から3割を占めているような気がします。

ビジネス本はまあ多様性のあるジャンルですが、自己啓発本は基本的に、短期的に自分のかなりコアな部分を変化することを推奨します。というか、読んですぐ実践するために読者は自己啓発本を手に取るのが主なので、需要がはっきりしています。

短期な性格を治す

他人の評価が気になるあなたへ

死は怖くない

このようなタイトルを見ると首を傾げてしまいます。この本を読むことで読者はポジティブな価値変容が起こるのでしょうか。起こったとして、その人の根本的な問題は解決されるのでしょうか。僕は表面的な問題を解決して満足するだけでは無駄だと思えてなりません。まあ、自己啓発本やスピリチュアル本は購買欲が湧きやすいので、バカバカ売れます。こちらとしては有難い存在ではあるのです。

性格はすぐには変えられない。

車はすぐには止まれない。みたいな標語に似てますね。全然違いますが。

これはどれくらい一般的な話なんでしょうか。皆さんはどう思われますか?

自傷する女の子

自傷する女の子に自傷することは悪いことじゃないと言うことがある。

そして、いつも、どの口がそんなことを言う権利があるんだろうと深く考えて、ふさがることがある。

言論の自由。子供っぽいけど頼らずにはいられない。

僕は自ら自分の身体を傷つけたりはしない。する必要がないからだ。シンプル。簡潔。おしまい。 

そうはいかないから世の中世知辛い。

 

なんで自傷するのだろう。実は今文章を打ちながらそれらしいことがひらめいた。

なんだよ、思いつきの論説かよ。俺暇じゃないだ。

知ってるよ。もちろん僕だって暇じゃない。

思いついたことを話す権利。これを失うと誰も口をきけなくなる。そして悲しくて手紙でも書くんだろう。ね、そこまで悪いことじゃないでしょう。

閑話休題

 

僕は今までに3人の自傷する女の子と仲良くなった。そして、3人のこと関係を持った。特別なことじゃない。よくある話だ。

長く彼女たちと付き合っていると確かな共通点があるなと思う。

彼女たちはあらゆる物事で自分を規制する。理解に時間がかかる内容だと思う。彼女たちは、日常生活のあらゆるポイントで些細な決まりごとを設けて自分を規律の中に置こうと努める傾向がある。

枕を絶対に直に地面に置かない。

電気を消す時は一度消して電気をつけ直し、最終的に電気を消す。

書き出そうとすると意外にいい例が出てこない。申し訳ない。

共通するのは、あえて行動のステップを増やしたり、意味のないルールを設けて余分な労力を使用している。

なぜ。

彼女たちは、自分という存在を認識し、手で触れて、安心したいのだ。

その手段の一つなのだ。

理由もなくたくさんの男に抱かれようとする彼女や

宗教を強固に信じて自己矛盾に苦しむ彼女は

みんな、自分という存在をはっきりと認識したいのだ。

その延長線上に自傷という行動のがあるのだろう。

男が自らの精液を飲んで安心するように

彼女たちも自らの体から流れる血を見て、手にとって、舐めて、匂いを嗅いで、そこにある自分を感じているのだ。 

ごめんなさい。

 

 

嫌いなもの。 レジの会計について。

レジの会計で明らかに手を抜かれていると、むっとするというか、心が侘しくなる時はないだろうか。

 

これは一般的な話ではなくかなり個人的な話なので、かなり退屈かもしれない。ごめんね。

 

なんで悲しくなるんだろう。なるべく簡潔に答えると、

一人の人間として扱われていないと感じるから

だろう。誤解しないでほしいのは、僕はサービスがなってない。客は神様だぞ。ふざけるな。とプリプリしているわけではない。そういう人は一定数いるようだ。すごく現実的な側面で彼らは自分のことが大事なのだ。

意味ありげにクレジットカードを渡す

一括払いで問題ないかと聞くと、余計なことは聞くな、当たり前だと顔をしかめる

彼らは現実的な側面で自分のことが大事なのだ。僕はそういう人もいると割り切って私情をレジに入れ込まないようにしている。無感情になるのではなく、慈悲の心を持って接客している。 そういう大会があればかなりいい線までいくんじゃないかな。

 

僕は彼らとは違う、あまり社会的な地位に神経質になったりしない。そもそもそこまで自慢できるものじゃない。来月の家賃を払うめどすらたたない惨めな学生だ。毎月借金が増えていく。漠然とした不安がつき待っている。できれば社会的な地位の話なんてしたくないなだ。

僕はもっと静かに、ひっそりと心をいためている。レジを打つ人間はそんなことに一切気づいていない。僕のことなんて次の客が現れれば顔すら忘れてしまう。それは仕方ないことだろう。客の顔を全員覚えとけって言われても困る。もっと有効な脳の使用方法はいくらでもあるに違いない。

 

人と人が接するのだから、それはある意味会話の1つなのだ。だから、いらっしゃいませ、ありがとうございましたも本来は相手に感謝の念や意思を伝えるための言葉なはずだ。

それを相手を意思することなくシステムの中のタスクとして発するのならば、言葉の浪費だ。言葉の浪費。新しいジャンルの言葉だと思う。高度資本主義社会は時間の浪費を神経質にきにするが、僕はカウンターとして言葉の浪費を意識するのだ。

めんどくさい話は置いといて、せめて相手の目を見て話してほしい。言葉は方向がないと離散する。