ふ
信頼
長く安定したコンテンツを作り続ける
1つの番組内でコンセプトがぶれない。
対局
民放の番組。視聴率を取るためにコロコロ変える
それは手段であって悪いことではない。ただ、僕は信念をもって番組づくりに打ち込みたい。
ピンチ
足つった時
忍耐力はある。
できないなんて決まってない。やらないとわからない。本当にできなかったらそん時考えよう笑それだけ周りを信頼してるし。けどやるからには絶対に達成したい。
体力は限界だったけれど忍耐力で達成できた。自転車を買う前に参加するべき。
ドキュメンタリー
観光について
寝れないかから気になったことを書く。
今朝の新聞によると2016年度の国外からの日本への観光者は2500万人で、前年よりも幾分か増加したらしい。
それに対して、一人当たりの観光者が一度の旅行で使用する金額は15万ほどで、前年から何ポイントか減少したそうだ。
記事はこの原因を、観光者が地方へ訪れるように変化したからだと推測する。始めて日本へ訪れる観光者はたいてい東京大阪京都のいずれかまたは複数へ訪れ、現地で商業サービスを受けたりショッピングを楽しむ。都市での観光は金を支出することが多い。
それに対し、地方の観光は比較的支出が少ない。というのも観光者は現地の文化や自然を享受するために地方へ訪れるからだ。
これらのことから、地方への関心が高まるほど日本経済への貢献が薄くなると言える。
記事では日本の文化を世界に広く知らしめることは良いことだ。しかしお金を観光客が落としていかないのは困りもんだねとまとめていた。
めちゃめちゃ納得のいかない記事だ。明らかに投げやりに書いたのだとわかる。自分で矛盾に気づかないのか。
けどこれは複雑な問題だと考えられる。観光客が日本の地方文化、つまり文化の中でもより細分化されディープなものまで興味を持つことは素晴らしい。しかし、文化や自然に対する対価を支払うのは困難だ。どのように問題解決を謀るべきだろうか。
僕は都市に観光を促すのではなく積極的に地方へ興味を持ってもらうべきだと考える。根本的な理由はディープな文化の理解はリピーターを生む可能性が高いし、リコメンドしたらバズる可能性に満ちているからだ。長期的な効果を考えれば早い段階から地方の可能性を掘り起こしていったほうがいい。東京で観光した人間は新たな観光客を呼ぶ可能性が低いと考えられる。
たしか海外観光客の六割くらいを韓国、中国、台湾が占めていて、そのほかが四割くらいだった。比較的韓国、中国、台湾からの観光客はマイナーな寺とか神社に行きがちだよね。爆買いしてる奴らもいるけどね。あの人たちは最初から目的を持って日本に観光に来てるわけだ。この層の観光目的とその比率はそうそう変わらんだろうね。観光する場所がある程度確立してるんだろう。
てことは新たな集客を狙えるのは残った四割の諸外国になる。彼らはそもそも日本の情報が少ない。スシ、サムライ、ゲイシャみたいな超クラシカルでメジャーなイメージしかないからより細かい情報にリーチしない。やっぱ観光地の情報って何かきっかけがあって関連情報として知る機会が多い。だから正当な過程は、自分の趣味を追求してたら日本に突き当たりましたみたいなアプローチなんでしょう。お茶が好きすぎて静岡のお茶農家を知りましたとか、納得好き好きて茨城行きたいとかね。次に多いリーチ方は、キュレーションサイトで取り上げられたりちっこいweb記事がばずって周知されたってのが多いと思う。
問題なのは地方の観光業のあり方だろう。
今日の彼女 20170106
今日の彼女はちょっと物憂げだった。
僕の家にのっそりのっそり入ってきた彼女は、ゆっくりとリュックを支柱にかけて、colemanの折り畳み式チェアーに深々と腰掛けた。特に何も発しない。
僕はちょっと彼女の雰囲気が気になった。けど言葉にするのはやめておいた。言葉にするとなんだか予想外の意味合いを含んじゃうことがある。思ったことを口にするという行為は一見シンプルだけど、対象の人がいると途端に複雑になる。僕はそういうテクニカルなことがとっても苦手だし、経験があさいのだ。僕にとってただしい行動は口を閉じることである。
彼女はNHKeテレのおじゃる丸を見始めた。でんぼという蛍のキャラクターの声真似をしてクスクスと笑っている。僕はちょっとほっとした。
今日はナポリタンを作った。昨日彼女に何が食べたい?と聞くと、「ナポリタン!から揚げ!あとサクレ(氷菓子)」と威勢よく答えた。彼女は物欲が少ない。生活するうえで必ず必要となるもの、そしてちょっと自分らしさを与えるものを余分に買うくらいだ。しかし、食べ物に関しては欲が強い。彼女と僕はほとんどLINEを使ってやり取りしているだが、その内容は簡素なもので、「バイトおつかれ」「ありがとう」「おやすみ」「おはよう」とありきたりで必要最低限の言葉しか使われない。ただ、たまに「肉!肉が食べたい」「寿司を食べに行くぞ」とかすっごい食べたいものを僕に要求してくる。前世になにかあったに違いない。フードファイターの生まれ変わりか、南アフリカの貧困層の生まれ変わりか、そんなとこだろう。たべたいものを率直にいってもらうとこちらとしては助かる。
玉ねぎをカットしてバターで炒めていると、隣の部屋で忍たま乱太郎を見てエキサイティングしていた彼女が「バターを焼いたにおい、いいにおいね」と僕に呟いた。なんだか久しぶりに彼女が素直な言葉を僕に向けて発したような気がした。僕は胸のつかえがすっとなくなるのを感じた。「そうだね。僕もそう思う」そう簡単に答えると僕たちは料理の支度ができるまで再び言葉を交わさなかった。
僕は沈黙というものをなによりも恐れている。本当にイチバンかな、とちょっと考えてみたけど恐れているものの中では断トツだった。理由は説明できるけどながくなるからしない。この時の沈黙はなぜか心地よかった。お互いとても素直になってこころをひらいていたからだと思う。沈黙を埋めるなにかがそこにはあった。こんな沈黙がずっと増えていけばいいな。長く付き合えば付き合うほど言葉が必要なくなっていくようだ。そのとき生まれる沈黙が心地よいものとなって僕たちの周りをただよっていますように。
おやすみなさい。
あなたが人の生き方を変えた経験
「あなたが人の生き方を変えた経験を教えてください。」
僕は人を変えた経験は一度もない。もしかしたら僕の耳に入ってこないだけで誰かの考えや行動を改めていたかもしれない。
なぜ、僕が人を変えたことがないのかを考えてみた。おそらく「他人は他人だし、僕は僕だ」と考えて行きてきたからだ。
もし、誰かがバイトをサボっていたとする。その子を勤勉で熱意のある人間に変えることが正しいことなのだろうか。僕は半分正しいし、半分は間違っていると思う。 彼の個性を尊重するのがもっとも重要なのであって、ある決められた形に変えてしまうのは大変危険だ。
サボるやつはサボるやつなりに理由がある。その生き方は彼が自ら決めたことなのだから、僕は口を出すべきではない。
「世界にはいろんな人がいる。それでいいじゃん」
なんでサボるのか、つまり彼の価値観を理解した上で、バイト側と彼の価値観の相入れるポイントを探ればいい。
僕が人を変えようと思わないのはきっといろんな価値観を持つ人がたくさんいた方がいい。と考えるからだ。だから自発的に自分の価値観を押し付けないようにしていた、それよりも他人の考えに歩み寄っていくことを大切にしている。
僕は最近、自分を大きく変えた。きっかけは自分の大切な人が強い信念を持っていきており、僕がそれに共感し、変わろうと思ったからだ。彼女は常々人を変えようとしてきた人だった。時には極論を言うし、自分の芯と合わない人間を排他するなど、柔軟性は限りなくない。彼女はそう言う点では他人を積極的に変えようとするタイプなのだが、僕は当初なんて押し付けがましい人間なんだ。と思った。今もそう思っている。
自分が変わっていく過程を通して、自分を極端に変えることは悪くないし、寧ろ魅力があることだと感じた。
もしも、相手が変わろうという強い意志を持ち、僕が助力できるのであれば主体的に取り組もうと思う。
僕は人を変える素晴らしさを知っている。
失禁と安倍首相、ひとつの啓示
こんばんは。酒井要人です。
新年あけまして、おめでとうございます。
大みそかの夜、僕は鈍行を乗り継いで東京から実家へと帰省をしました。途中、熱海から浜松まで乗り換えなしの区間があり、三時間程度座席に座りっぱなしでした。座ってじっとしているくらいなら半日余裕な僕ですが、徐々に尿意が増してくるのを暗に感じていました。それは、まさに悪い知らせであり、遠くのほうからのっそりのっそりとやってくるのです。
浜松に到着する20分前には僕の感情は無になっていました。足を組んだだけで膀胱が圧迫されて漏らしかねない状況にまで追い込まれていたのです。椅子にちょっと深く腰掛けて、全身の力をできるだけ抜く。この状態を保ちながら、淡々と時間がたつのを待ちました。僕は神を信じたことはないのですがその時は思わず「神よ、祝福してください」と窓から見える天を仰ぎました(三時間後に初詣に行き、お汁粉食べてほくそ笑んでました。神様は安倍首相ばりの寛容の心をお持ちなので、僕を許してくれるでしょう。)
人間、たくましいというか狡猾なもので、もし電車のなかで「もうおしまい(笑)」となった時の対処法を何パターンに分けて考え始める僕がいました。この時点で膀胱のキャパシティーは限りなく透明に近いブルーというか限りなくゼロに近い有数となっており、あと10分で浜松駅に到着するところまで電車は進んでいました。「いける、、!、いけない、、!」のせめぎあいが脳内で活発に行われる中、厳かに脳内の別の部屋で、もし我慢できなくなったらどうするかという会議が粛々とおこなれ始めました。
もし電車がつくまえに失禁しそうになったら
「列車と列車の連結部に逃げこみ、他人からは見えないポイントでペットボトルに用を足す」もしくは「潔く漏らす」というどちらにせよ「人間の尊厳Dead or Dead」な結論に至りました。
電車内の放送が「次ははままつ~ はままつ~」とアナウンスをしたとき、僕は勝利を確信しきれませんでした。時間的にはあと五分、常人の膀胱であればやすやすと我慢できるでしょうが、すでに僕の膀胱は限界を迎えていたのです。その場で10㎝くらいの小ジャンプをしただけで膀胱には深刻なダメージとなります。僕は間違いなく浜松、いや静岡全土の人間のなかでカースト最下位にあったことでしょう。小学校低学年の女の子に手を引かれただけでその場にうずくまることになるでしょうし、赤ちゃんを抱っこするだけでも深刻なダメージとなりうるからです。もう一度言いますが、僕は生まれたての自立性のない赤子よりも、か弱い存在だったのです。電車の中という密室でおしっこを我慢するということはつまりそういうことなのです。赤ちゃんの顔の造形は自然と母性をくすぐり、「あ、世話したらんと」という感情を引き起こすそうですが、三日間ひげを剃っていない清潔感のないオタク顔の僕は、他人の力を乞うことすら絶望的でした。
結果として、僕は助かりました。僕は生きながらえたのです。階段をめっちゃ内股でおりきったとき、トイレがすぐ真横に設置されていた時は神に感謝の言葉が出ました。神は僕を見捨てはしなかったのです。あんなか弱く清潔感のない僕でも神は天から見守っていてくれたのです。友達のキリスト教徒が意気揚々と語っていたのですが、キリスト教はすでにイエスの後を追う時代が終わり、日常生活に溶け込んで生活する新たなる神を発見する段階に至ったといいます。「神はもう我々人間の中にいらっしゃるのだ、私たちはイエス様のときのような過ちを二度と起こしちゃいけないんだよ。」と彼が発言するのを「めっちゃ甘いもの食べたい、、!」とアイスのことばかり考えていてろくすっぽ聞いてなかったのですが、極限まで追い込まれた僕は彼の言葉はある意味啓示のような力をもち頭の中でこだましたのです。
話をまとめてしまうと、いい年した大人が新年を目の前にして失禁しそうになったという話です。最近膀胱がゆるゆるなんですけれど伸びきっちまったんでしょうか。
みなさんよいお年をお過ごしください。
さようなら。
美味しいビールはいかが。
僕はいまあるヨーロピアンビールバーでうまいベンジャミンエールを飲んでいる。ベンジャミンエールってなんだと君は思うだろう。
美味しいビールだ。
オランダの新鋭ブルワであるmikkererのrice market Copenhagen というビールである。君はライス?コペンハーゲン?といぶかるだろう。
オランダの首都の米で作ったビールだ。
簡単に言うと、
美味しいビールだ。
三軒茶屋駅を降りてすぐの路地に入るとうっすらと湯の花の匂いがする。あまり清潔とは言い難い外観の銭湯がそこにはある。あたりは暗く、人通りもない。
そんな路地にひっそりと佇むビアバーがpiggale Tokyoである。店内からは暖かい好色の光が漏れだし、店頭ではペンキが剥げ落ちたピエロがにっこり微笑んで客を招き入れている。
僕は数年前にこの店を見つけ、いつか訪れたいものだと考えていたのだ。
今日はクリスマス用に特別に醸造されたブラウンエールが生で繋がっているそうだ。クラフトビールはシーズナルにその味を変えるのが魅力である。
今日はまだまだ飲むのだろう。
夜行バスの中でうなだれるようにしてシートにもたれかかる姿が想起される。
簡単に言うと美味しいビールだ。