鹿とニワトリ。彼女が号泣した。
二人でラーメンを食べて、さーて俺の家帰ろうかーって言いながら自転車にまたがった。
いやに寒かった。一日中曇っていたから夕暮れ時でも寒い。
アイス食べようか。と僕が聞くと
アイス食べる。カフェオレも飲む。と彼女は答えた。
僕の家に帰る途中に、スーパーに寄ってアイスを買った。僕はメロンのラクトアイス、彼女は爽の期間限定のアイスを選んだ。
彼女は上機嫌だった。
爽はチョコとバニラ味のアイスがチェック状にしきつめられていた。それを見た彼女が、これラグっぽい。と言いだした。
この15分後に、彼女が道端でワンワン泣きじゃくるのを僕たちは知らない。
アイスを買って上機嫌な彼女はずっとラグの話をして自転車を運転していた。
「うちのラグね、鹿の子毛調風だよ」
彼女はただその一言が言いたいだけだった。なんなら鹿の子毛調風を言えたら満足だったんだと思う。
これは僕と彼女の会話ではなく、彼女の自己満足に近かった。お互いそういうことはよくある。もしかしたら誰しも程度の差こそあれ似たようなものなのかもしれない。
問題は、彼女の滑舌がとても悪いということだった。
僕の彼女はとっても滑舌が悪い。注意を忘れると、ありがとうございました すら噛むときがある。
ありがとごふぁあむ
ありぐふ
あふ
みたいに噛む。最後のありがとうございましたは書店員の彼女にとって致命的だろう。
鹿の子毛調(しかのこけちょう)
確かに難しいポイントがいくつかある。
実際に声にだして発音して欲しい。
すらっと言えたあなたは、何度も繰り返して欲しい。
「しかの こけちょう」になっていないだろうか。
正確には「しかのこ けちょう」だ。
鹿の子の毛調だからだ。
こけちょうと聞くとニワトリみたいだと思う。僕は奈良の放し飼いにされている鹿のことを想像していた。ほんとうに太々しい。奈良公園と書かれたモニュメントの前で膝を折って伏せているのだ。僕が餌を持っていないことを確認すると、断固として僕に視線をやらない。永久に左斜め上の空を見つめている。ここまでくると意地のようなものすらあるだろう。
僕は奈良から引き離された。そしてまったく知らない農家にやられて、屋根の上を眺めている。朝日が眩しくて僕は手で影をつくった。
ニワトリだ。ニワトリがいる。うるさい。
僕は鹿と戯れていたはずだった。少し悲しくなった。実際のところ、無愛想な態度がちょっと気に入っていたのだ。
彼女は案の定、しかのこけちょうふうが発音できていなかった。
しかのけ、、あ、、
しかのこちょ、あ、、
しかのち、、あ、、
自転車でまっすぐの県道を走りながら彼女はずっとふごふごしていた。
そしてある重要なポイントに至った。
しかのこけ、ちょう?
しかのこけ?
しかの こけ?
こけ、こけ、、
こけ?
ニワトリだ。ニワトリがいる。うるさい。
僕はまったく知らない農家にやられて、屋根の上をまぶしそうにしながら眺めている。
「いいかい、しかのこ けちょう だよ。しかの こけちょう じゃない。それだとニワトリになっちゃう。問題はそこにあるんだ。ニワトリの方が発音しやすいんだよ。ただ僕たちは鹿の毛の話をしているんだ。」
彼女もなんとなく気づいていたはずだ。だから発音できなかったのだろう。しかの こけちょう は発音しやすいけれど、意味合い的におかしい。
こ と け を連続しないように注意して。と言うと、彼女は初めて満足がいくしかのこけちょうを発音することができた。
僕はほっとした。もしかしたら帰ってからもニワトリのことを考えさせられるとおもったからだ。どうやらその心配は無くなったようだ。
彼女はなお、上機嫌になった。満足に発音できたから。家に帰るとアイスが食べられるから。
彼女は調子にのって何度も何度も鹿の子毛調風と声にだして、自転車を漕いでいた。いつもよりちょっとペースが速かった。彼女は路肩は走らずに必ず歩道を走る。歩道で走るにはあまりに速度が出ていた。
僕の家は片側三車線ある太い県道から一本脇にそれた道にある。深夜になっても大型バスがガタガタと音を立てて走るし、バイクがバルバルと音を立てて走る。最近はずいぶん慣れだが、越してきたときは眠れなかった。
彼女は目的地付近まで県道で達したので、ハンドルを右に切り、脇道にそれようとした。
その時、30センチほどの段差に正面から衝突した。彼女は前方に投げだせれ、コンクリートの段に顎から接触した。
(近いという理由で僕がよくいく喫茶店の前だった。仲のいいおばちゃんが二人できりもりしている。お客はもっぱら近所のおじいちゃんおばあちゃんたちで、持て余した時間を殺すためにおしゃべりに来ていた。僕はその雰囲気を気に入っていた。彼らは長く生きただけあって配慮の加減が適切だ。基本的に放っておいてくれるのだが、食べ物をサーブする時や会計をする時、退店する時にちょうどいい言葉をかけてくれる。不思議なことに気持ちいい気分になる。もしかしたら 僕だけかもしれないけど。)
見た目はかなり間抜けだった。だって、コンクリートに大の字にベタっと仰向けになってるんだから。
うわ、馬鹿みたい。
と思った、次の瞬間に僕は自転車を横に投げ捨てて彼女の元に走った。彼女の足が自転車のフレームに絡まっていたので、自転車を身体から引き離し、自転車を立てかけてから、彼女を引き起こした。
彼女は無表情で、痛い。と言った。
彼女らしい。と僕は思った。
経験でわかる、あの速度で顎から落ちたら死ぬほど痛い。
僕はとっさに彼女を抱き寄せて、頭を撫でた。そして泣いていいよと耳元で囁いた。
すると彼女は堰を切ったように、いたいーいたいー。と泣き出した。
いたいーえーん
あごいたいー
もうしかのこきらいー
しかー
えーん
..........
アイス食べる...
うん、アイス食べようと僕は言った。
道端に投げ出された僕の自転車とその横で泣いた女の子を抱く男の子をみて、歩行者道を渡ってきた人々は僕だちを珍しそうに見ては、通り過ぎていった。