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嫌いなもの。 レジの会計について。

レジの会計で明らかに手を抜かれていると、むっとするというか、心が侘しくなる時はないだろうか。

 

これは一般的な話ではなくかなり個人的な話なので、かなり退屈かもしれない。ごめんね。

 

なんで悲しくなるんだろう。なるべく簡潔に答えると、

一人の人間として扱われていないと感じるから

だろう。誤解しないでほしいのは、僕はサービスがなってない。客は神様だぞ。ふざけるな。とプリプリしているわけではない。そういう人は一定数いるようだ。すごく現実的な側面で彼らは自分のことが大事なのだ。

意味ありげにクレジットカードを渡す

一括払いで問題ないかと聞くと、余計なことは聞くな、当たり前だと顔をしかめる

彼らは現実的な側面で自分のことが大事なのだ。僕はそういう人もいると割り切って私情をレジに入れ込まないようにしている。無感情になるのではなく、慈悲の心を持って接客している。 そういう大会があればかなりいい線までいくんじゃないかな。

 

僕は彼らとは違う、あまり社会的な地位に神経質になったりしない。そもそもそこまで自慢できるものじゃない。来月の家賃を払うめどすらたたない惨めな学生だ。毎月借金が増えていく。漠然とした不安がつき待っている。できれば社会的な地位の話なんてしたくないなだ。

僕はもっと静かに、ひっそりと心をいためている。レジを打つ人間はそんなことに一切気づいていない。僕のことなんて次の客が現れれば顔すら忘れてしまう。それは仕方ないことだろう。客の顔を全員覚えとけって言われても困る。もっと有効な脳の使用方法はいくらでもあるに違いない。

 

人と人が接するのだから、それはある意味会話の1つなのだ。だから、いらっしゃいませ、ありがとうございましたも本来は相手に感謝の念や意思を伝えるための言葉なはずだ。

それを相手を意思することなくシステムの中のタスクとして発するのならば、言葉の浪費だ。言葉の浪費。新しいジャンルの言葉だと思う。高度資本主義社会は時間の浪費を神経質にきにするが、僕はカウンターとして言葉の浪費を意識するのだ。

めんどくさい話は置いといて、せめて相手の目を見て話してほしい。言葉は方向がないと離散する。