仏教とサルバトーレ・ダリ

僕は気の利いた文が書けません。

言葉を扱う際は、読み手を思いやり、そして、誠実であることが僕のモットーです。

母方の実家は内陸のまあ辺鄙な場所に家を構えているのですが、そこのトイレを使ったとき、壁に地元新聞社が年間購読をしている顧客に配布するカレンダーがかけられていました。

カレンダーは縦に長細く、フォントやレイアウトから恐ろしく仏教色の強さを匂わせていました。

そこには墨字ででかでかとこう書かれていました。

 

言葉が少ないことが良いのではない。真実を話すのが大切なのだ。

 

僕は便座に座って用をたしながら、感銘を受けました。よくぞ言ってくれた、偉い!と文の主人の肩を叩いた後に強く抱きしめたい衝動にかられました。しかし、ズボンを半おろしにして便座に座る僕はあまりにも無力でした。どんな合気道の達人でも腕組みをした状態からは奇襲に応対できないそうですが、間違いなく僕も腕組みに準じる無抵抗な状態でした。トイレの便座に座る合気道の達人と、腕組みをする合気道の達人を真向かいに配置して戦わせたらどうなるのでしょうか。ポケモンで例えると、コクーンイシツブテが交互にかたくなるを繰り出す近年稀に見る泥試合になるのではないでしょうか。

そんなことは置いておいて、僕は強く感銘を受けたのです。

僕は多く話せば話すほど、相手に嘘ばかりついているのではないかと不安に駆られていた時期があります。成人し、ある程度社会的な経験を積んできたので、今となってはタテマエというものが僕と君の間にはあってそれを尊重しなくてはならない場面もあるんだということを長い時間をかけて飲み込んできました。会話は時と場合で変化して、場合によっては真実を話すことが不適切なことがある。きっとそういうことでしょう。つまり僕はただたどしくはあれど、会話の柔軟性を身につけたのです。 

しかし、当時の僕はテクニカルな会話ができない、というか、タテマエという存在すら知らなかったのでずいぶんと他人との衝突があったり、人の言うことが理解できなかったりと精神をズリズリすり減らしていました。相手を尊重する手段を僕は嘘をつかないことしか知らなかったので、場合によって会話にミスマッチが起こりました。僕は何を話せばいいんだろう、ひょっとしたら無理にでも話を合わせて笑みを作っていればいいのかもしれない。そう考えました。そうして僕は、相手が話すことを一言一句聞き逃さないよう耳を傾け、ただ当たり障りのない返事をする比較的無口なスタイルに変容していきました。

ふらっと入ったビレバンに、「会話は8割が嘘」というタイトルの新書が平積みされているのをちらっと見かけ、別に手に取るわけでもなくその場を立ち去ったのですが、どうしても頭からそのタイトルが離れませんでした。ベットに入って毛布に包まりながら、ああ、そもそも僕がどれだけ気を使って言葉を選んだとしても、その多くは嘘にちがいないのだ。みんなは早い段階でそれに気づいたから何も心を傷めることなくあんなに楽しそうに会話しているんだ。と考えました。その考えは意外と不安な気持ちになることはなく、比較的すんなり僕の中に溶け込みました。ある意味諦観のようなものでした。僕は自分の発言に心を傷めることは無くなりましたが、その代わりとして言葉の色を失ったのです。なんだかその後、フォースの力に溺れてダークサイドに堕ちるのではないかという悲劇的雰囲気を漂わせていますが、安心してしてください、ちゃんと普通に大学生をやってます。就活に四苦八苦してのたうちまわっています。

(書いていて思ったのは、自伝で幼少期に不遇な人生を送る話は、最後にほぼ必ずハッピーエンドで終わるのではないかと思います。言い直すと、悲劇的な幼少期を描く自伝小説は必ずハッピーエンドになるから安心して読み進めめればいい。ということです。悲劇的な出来事があり、ダークサイドに堕ちるまでの思考の飛躍として、主に記憶の捏造や自己肯定が挙げられますが、ダークサイダーにとってその過去は現在の自分の身を脅かすものであって他人には決して知られるべきではない情報です。ナチ党の党首であるアドルフヒトラーは自伝、我が闘争において自分の幼少期をこれでもかというほどに偽り、美化をしています。彼は若かりし頃、パンひとつかうことができない惨めな画家でした。シュリアリズムの巨匠サルバトーレダリも自伝において、幼少期の事実を美化しています。彼は優秀ではあれど、ホモセクシャルを社会的に隠して生きる哀れな少年でした。スターウォーズのダースベイダーに至っては人間の言語を使用しようともしません。彼も過去を肯定することなく生きる哀れな人物の一人なのです。このことから、どうやら自伝において幼少期が悲劇的なものはダークサイドに堕ちることはほぼないのだと考察します。)

 

疲れたので後日書きます。

おやすみなさい。