お弁当は世界を救う、そう今日から信じることにしました。
僕は朝、彼女に頬を叩かれて目を覚ました。
容赦のない平手打ちだった。一瞬で目がさめるかと思いきや、自分の体温と同化した布団は優しく僕を眠りに導いた。
彼女はひとしきり頬をつねったり、唇を引っ張ったり、フードを鼻元まで深くかぶせたり、僕にちょっかいをかけた後、「さて、勉強してくる!ちゃんと学校行きなよ」と玄関から声をかけた。慌ただしく靴を履く音が聞こえ、僕はちょっと急いで、「うん、いくよ。」と返事をした。その直後に、玄関が閉まる異様にでかい音が響き、また部屋に静寂が戻った。昼間に近い朝だ、嫌になる。昼間の光は寝起きの人間をダメにする。なんだかひどく重々しくて清潔さがない。不浄の光。そんなフレーズをつけて、少しばかり気の毒になった。
さて、昼まで寝るか。
学校にいく気はさらさらない。
僕は微塵も彼女に申し訳ないという気持ちを感じなかった。これは自己責任の問題なのだ。他人はそれに対して、べき、必要がある、と必要性を求めることしかできない。とにかくこれは個人的な判断に任されている。彼女に罪悪感を抱くのもおかしな話だ。
尿意を催したため、トイレで用をたしてから一杯の水を飲み、二度寝を敢行すべし。と自らに言い聞かせた。
僕は布団を上半身までヒッペ返し、するっと脚を布団から抜いた。最初は左足、次は右だ。立ち上がり、キッチンを通り過ぎ、トイレに向かう。
なんかある。
キッチンの前におかれた二人用のダイニングテーブルに見慣れない手提げ鞄が置いてあった。彼女が置いていったことは明らかだが、テロの可能性も十分に考えられた。なにせ僕は就寝中玄関に鍵をかけない。僕の部屋は常に外と開けっぴろげにつながっている。経験上、メリットもなければデメリットもない。鍵をかけようがかけまいが、家に強盗が入るわけでもなく、朝ごはんが用意されているわけでもないのだ。
で、これである。謎の手提げ鞄だ。
麻地で深い紺色、色味は悪くない、作りもしっかりしている。ところどころ繊維がほつれていた。
僕はとくに警戒するでも、期待するでもなく中をのぞいた。中には同じ柄の保冷袋が入っていた。
あ、お弁当じゃん。
ちょっと意外だった。どんよりとした昼間の雰囲気が一転したように思えた。さて、ここからが君の活動時間ですよ、と判を押されたように、パン生地をヘラでスパッと分割するように、その瞬間、何かが終わり、何かが始まったのである。
僕はこの変容ぶりに若干困惑したのである。
以降、卓上に置かれたお弁当による僕の心情の変化とお弁当の意義について考察する。
僕がお弁当を見て真っ先に考えたことは、学校に行かなきゃということだった。僕が最近まともなものを食べていないことを知っていたから、お弁当を作ったのだろうが、もし僕に栄養価の高いものを食べさせたいのであれば、僕の家で料理をこしらえ、卓上を食べるだけの状態にすれば事足りる。お弁当を用意することは、あらかじめ持ち運ばれることが想定されている。つまり、お弁当を作ることの労力に僕が敬意を払い労うためには、お弁当を正しい時間に正しい場所で食べることが必要なのだ。ただし、それは強制されるという感覚を与えることはない。お弁当から感じられる愛情や、学校で食べることを意図して作られた内容を、僕は無下にはしたくないし、単純にありがたく思うからだ。
そういう点でお弁当は恐ろしくよくできたツールだと実感した。お弁当はコミュニケーションツールになり、かつ、人の行動を制限し、促し、導くツールにもなりうるのである。
お弁当はポジティブに人のココロを価値変容させる力を持つ。
そして、数分後、学校にいく支度を済ませ、玄関を潜ろうとした時、あることに気づき、驚愕した。
お弁当は持ち主に返さないといけない。しかも、弁当箱は習慣的に使用されるものなので、常識の範囲内でという制限が加えられている。僕は学校から家に帰り、彼女の空いている時間を確認して、返却しに家にいくことがいま決められたのだ。
もしも、意図してお弁当をつくり、卓上に置いていったのであれば、狡猾さが伺える。
僕は学校に向かいながら、ちらと弁当から垣間見える策略に震えたのである。