坂本龍一と図書館から見える風景

大学の図書館で雑誌を読むのが僕のささやかな楽しみである。

坂本龍一を特集した美術手帖の最新号を僕は文字通り巻頭から1ページずつ1ページずつめくって読み進めていた。

私は不器用な人間である。アナログの文章を目の前にすると文字を全て順番通りに読み進めないと気が済まないのだ。それは雑誌も然りである。文字を読みながら対応する写真を正しく順番通りにみる。

坂本龍一は10年ぶりに新譜を発表したようだ。インタビューの内容から推測すると彼にはデカダンス的な傾向が生じているのだろう。音楽は奏でるものではなく、聴くものだと語り、よりプリミティブな音源を求めてモノとモノが擦り合わされた時に生じる音をサンプリングしたと語っている。つまり彼は音楽を作りながらもインスタレーションを強く意識しているのだ。なかなか理解は難しい作品なのだろう。興味はあるがおそらく自分のための音楽ではなさそうだとインタビューを見る限り感じた。

さて、図書館の雑誌コーナーは3階の窓際に存在する。フロアは長方形をしており、短い方の側面を全面ガラス張りにしている。読書用の椅子やテーブルはガラスと向き合うように配置されており、そこに座れば外の風景が大胆に観られるように設計されている。

四月も下旬に差し掛かり、緑は寒い時期に蓄えたエネルギーを今かと解き放とうとしている。目の前に移る木々は新緑に加え、枝先から若干の赤みがかった葉が成長していた。印象派の絵画でよく観られるような配色である。木々には光が満ち、葉から反射した光は僕には白く認知され、若干白味がかかった葉たちは、清潔で朗らかな印象を僕に与えた。

僕は思わず雑誌から目を離し、外の風景を凝視してしまった。木々が強風によって枝葉を大きく揺らめき、それによって乱反射した白熱光が恐ろしくダイナミックに輝いていたのだ。それはまるで自立した意思を持つ海底の生き物のようだった。

私は外に出て、その眺めを観たとしたら、これほどまで惹きつけられなかっただろう。外を歩けば人々の雑踏の中で、木々を揺らす風が吹き抜ける音が聞こえ、揺らされた木々の擦れ合わされる音が聞こえたはずである。それは視覚と聴覚が一致しており現象は何も意外性がないはずだ。風が吹き、木々は揺れた、そして音が生まれたのである。

僕はその光景を人が雑誌のページをめくる音が聞こえるほどの静けさの中で観たのだ。するとどうだろう、風に揺らされたと判断したが、はたして本当に風は吹いているのかと疑問に感じられる。それを保証する聴覚の情報はどこにもない。もしも風が吹いていないのならば、いよいよ木々は自らの意思を持ってより太陽の光を求めようとその枝葉を懸命に動かしていたのかもしれない。僕は無音の中でダイナミックに揺れる木々を眺める中で、木々が生命を持っているという考えが強くなっていったのである。

その妙さに僕は思わず雑誌から目を離し木々み長く見つめてしまった。日現実性はこのような場所に潜んでいる。そして、坂本龍一のいう、モノの発するプリミティブな音の存在の価値というか日常における重要性をひしひしと感じたのである。

 

失礼します。