月面に立つ 回想の前の前提条件

二つの出来事を回想しようと思う。その前に一つのお話を理解しておいてほしい。

 

僕は今物悲しい男が登場する物語をを読んでいる。もしかしたらあなたはユーモアのある作品であると読み終えた後に判断するかもしれない。それは個人の意見であって僕がどうこういうことではない。一般的な印象としてはかなり示唆的なお話だ。

主人公の男性は他人と対峙する時に、いかに客観的であるかを重要視する。つまり、パーソナルなこと、主観的で感情的なものを排している。彼が他人に話すことは

昨日スパゲティカルボナーラを食べた

2年前に猫を飼っていた

スキーをするのが好きだ

とか。彼にとって変わりようのない事実だ。

彼はそういう点でかなり公正な人間だし、社会的適合性を持ち合わせていたし、なんなら女の子を口説くユーモアを持ち合わせていた。しかし、彼の客観性を保とうとするスタンスは彼を変人とか、一風変わった人間だとか、相容れない存在だとか接する人に思わせる結果となった。彼は孤独なのである。

きっと彼は、すべての人間から不気味がられていればよかったのだ。そしてうらぶれた居酒屋のカウンター席でひっそり酒を飲み、ひっそりと本を読んでいればよかった。あるいは北海道の中標津で季節の移ろい感じながらら晴耕雨読の生活をおくるのが幸せなのだと思う。

幸せなことに(あるいは不幸なことに)、彼の身の回りには彼の客観性を正確に感じ取り、何かしらの魅力を感じて近寄ってくる女性がほんの僅かにいた。具体的に数と期間を数えると1年に一人くらい。彼女たちは必ずと言っていいほど彼の家に任意のタイミングでやってきた。彼を必要としたからだ。必要とされたものが何であるかを具体的に説明することできない。強いて言うならば、彼の生き方や彼の人間性のコアに惹かれるものがあったのだろう。そして、彼も彼女たちを必要としていた。性欲を発散するためでも、所得を増やすためでもなく。

彼女たちに共通することがある。

彼女たちは彼を求めていた

彼女たちは彼に何かを伝えようとしている

彼女たちは必ず彼の元を去っていった。突然に。それも傷ついて。

彼は、彼女と接する時、何かをすり減らすような感覚を覚える。しかし、彼は彼女が自分よりももっと酷く身をすり減らしていることに気づいている。彼は彼女に様々なものを与えようとしたのだが、それは無駄になることを知っている。

彼女は彼の脇に乳房をつけながらいう

「あなたって月の住民みたいよ。はやく月に帰りなさい」

「ねえ、私ね、あなたといるととても安心するんだけど、どんどん私自身が薄くなっていくような気がするの。まるで月面に連れて行かれたみたいに」

彼は彼女に毛布をかけながらいう

「実際のところ、月面には空気というものがないんだ。だから薄いもなにも、そもそもそんなことはありえないんだ」

素敵な会話だと思う。僕だけだろうか。減量を終えたフェザーライト級ボクサーを思わせる。禁欲的で、素直で、クールで、ちょっと愚かな感じがいい。

その数日後、彼の元に一枚の絵葉書が届けられる。差出人の名前はなかったが彼は一目見て誰がこの絵葉書を自分によこしたのかを理解することができた。それは月面を大胆な構図で写した写真を使用していた。彼曰く、誰が見てもなんともない写真である。しかし彼と彼女の間において、写真は蔑ろにできない意味合いを持つ。絵葉書には「今付き合っている男性と結婚することにした。もう会うことはないだろう」とだけ書かれていた。すでに決められてしまった確かな事実と、文句のない推測が簡潔に彼に提示されたのだ。

彼は感傷的にはなっただろうが、それをなにかに発散することはなかった。彼は、あまりにもそういう類の物事に慣れ過ぎてしまったのだ。彼にとって大事なことは、これまでの複雑な事象を遠くかららざっと見渡して、法則性を見つけることだった。

彼は考察する。彼女たちはいったいなにを求めていたのか。どうして何かをすり減らして去っていってしまうのか。僕にできることはなかったのか。

"僕の中には一方通行の入り口と出口がある。出口から入ってくることはできないし、もちろんその逆もできない。彼女たちは入り口から入ってきて、僕の中にとどまり何かを求めようとする。そして、彼女たちは何かをすり減らして出口から去っていくのだ"

彼はこう物事を一般化した。全く問題はない考察だと思う。反例はないし、ある程度普遍的であるようだ。結局彼は孤独なのだ。彼はその年34歳になる。やれやれ、いったいいつまで僕はこんなことを続けなきゃならないんだと考えながら、パスタを茹で、缶ビールを半分飲んで流しに残りを捨てるのだ。

 

 

月面に立つ

僕は彼女と少なからず20回の別れ話をしている。その全てが状況は異なるが、彼女が切り出してきた。

二人で抱き合った朝

インターンの帰り際

自室で寝ようとしている時

本当に状況は様々で、それぞれがかなり話がこみいっていた。一生涯に経験する平均的な別れ話を二十代の前半で経験してしまったのではないかと漠然と考えてしまう。ある短い間に残虐で暴力的な経験を詰め込むようにした人間は、どこか大切な人間性のコアを歪めてしまったように思わされる。僕が見てきた人間は共通してコアの歪みに程度の差はあれ、負い目を感じていたし、外回りの見た目で覆い隠そうと注力していた。

僕の彼女もその一人だった。彼女は何層にも何か(残念だけれど言葉にするのは非常に難しい、確かなことは、それは偶然得られるようなものではなく、強い意志を持って選択されたものだ)を外部に塗りつけて、なめらかになるように曲面の凹凸を磨いていた。それは僕にザッハトルテの製造過程を思い起こさせたし、ツヤのある木製の家具を思わせた。

どうして僕は彼女の別れ話を受け入れないのだろう。あるいはこれからも。別れ話の中には懇願のようなものもあった(多くは冷静でビジネスライクなものだったが)。もしも自分の愛する人間が、傷つきスポイルされようとしていていて、自分を保つためリカバリするために別れを懇願するのならば、正常な人間ならば、相手の心身を気遣って別れを受け入れるだろう。そして心を傷めるのだはないだろうか。僕が経験してきた男女の関係を一般化した場合、そのようなことが起きるのだと考えている。わりに僕は無差別に偏見を持たずに情報を受け入れるタイプだ。おそらく一般化したと言ってもさしつないだろう。 

僕は一般化された人間とかけ離れた人間だろうか、決してそうではない。僕はなんらスペシャルな特性を持ち合わせたいるわけではない。他人が僕をどう判断しようと、僕は平凡で凡庸な意志しか持たない。自立性が不足しているのは否めない。ただ僕は公園の隅のブランコみたいにありきたりで、一目見れば大体の特性を把握できるような人間だ。 

僕が彼女を失いたくない(どれだけ彼女が熱意を持って別れを求めたとしても)理由はいくつあるだろう。ざっくばらんに俯瞰してみてもソリッドな個数は把握できないように思われる。というのもそれぞれの理由が、少なからず関係を持っており、ここまでは一つの事象だね。と切り離すことが困難だからだ。パン生地をヘラで綺麗に等分するように小気味好く切り分けられたならもっと簡潔だったはずだ。これはきっと仕方のないことなのだ。僕は山の連なりをを俯瞰して、あれは御岳山だ、あれは乗鞍岳だと断定するしかない。長く北アルプスに暮らす住民にとって乗鞍岳と御岳山の境目の位置はそれほど重要ではない。地形の隆起に大まかな名前をつけることが必要なのだ。いささか便宜的とも言えるかもしれない。 

大まかな事象をピックアップすることに努める。

僕は彼女を救いたいと思っている

彼女の地に脚ついた生活感は僕を安心させた

彼女の社会的欲求の強さは僕をソフィスティケートする

彼女は僕から離れようと努めている

書き出してみると、かなり微妙な話に収束しそうで身震いをしてしまう。僕は彼女を長期的な視点で得ようとしている。あなたは目を背けるかもしれないけれど、そこにはかなり現実的でビジネスライクな理由も含まれているのは事実だ。彼女は僕に与えるものはないと感じているかもしれない。しかし、僕は彼女から得られるものは計り知れないと確信している。彼女の強固な意志は融解する可能性はあるが(実際僕はそれを求めている。彼女はあまりにも強固だ。他人に頼ることなく孤独に生きうことが彼女の美徳となる。あるポイントに落ち着いていることは僕が見て明らかだが、根本的な解決は融解をもってしか得られないだろう。これはかなり骨の折れる話だ。僕が焦ってことを進行しようとすると、当然ながら強い抵抗が発生する。もっとも堪えるのは彼女自身なのだ。僕が他人のコアな部分に立ち入るのは軽率なのかもしれない。ただ、何も手をつけられないまま生きていくことといつか彼女はスポイルされるだろう。内面から崩れ落ちる日が来るかもしれない。僕は彼女のそばにいなくてはならないのだと強く感じている。他人にそれがエゴだといわれようと。)きっと長い間、その姿は保たれ強固になるのだと考えられる。僕は彼女の分厚い鎧のことが嫌いではない。彼女がもがき苦しみながら構築してきたそれはかなり良くできているし、見ていて魅惑されるものがある。

 

 

 

僕と彼女について

退廃を感じると憂鬱になる

音楽を聴こうとプレイヤーの一覧をざっと見ても聞きたい音楽がなかった時とか

海外で買ったインディバンドのアルバムがありふれた音楽だった時とか

積もり積もった本を目の前にしても読みたい本がなかった時とか

さよならした後のラインで送られてくる別れ話とか

ずっとグズグズしてる彼女とか

 

嫌になるなほんと。

 

忘れ物をして何が悪い 2

忘れ物をして何が悪いと思っている。

前述したように、僕はブリュッセルのエアポートにかなり重要なカードが入った財布を置いてきたが、目の前の豚骨ラーメンを食べるほうが優先順位が高かった。

 

財布を無くしも堂々と振る舞えるのは、豊富な経験があるからだ。僕はあらゆる場所に財布を忘れてくる。

温泉のロッカー

電車の椅子

友達の家

年に10回は財布を置いて去るのだが、必ずといっていいほど財布は僕の元に帰ってきた。しかもまったく手をつけられていない状態で。

施設に忘れた場合は、当日か翌日に電話をして確認する。すると大体の場合忘れ物として保管されており、直接受け取りにいくか、着払いで郵送してもらえばいい。

電車に忘れるとちょっと面倒臭い。地下鉄か否か、特急か否か、会社はどこかで連絡をする場所や保管されている場所が異なるからだ。この場合も、骨が折れる作業ではあるが正しい処理を行うと、無事に財布は手元に帰ってくる。

 

僕が何を言いたいかというと、日本国内であれば財布を捜査して受け取るためのシステムがかなり円滑に作動しているので、本人に最低限の語学能力、情報リテラシー、時間とお金があれば、財布の心配をそこまでしなくてもいいということだ。懐手で口笛を吹きながら歩いてればいいのだ。

 

続く。

忘れ物して何が悪い

忘れ物をして何が悪いと思っている。

僕の母親はとても神経質で(もしかしたら過保護なだけだったのかもしれない)いつも僕の持ち物を確認してくる。

お財布は持ったか。

チケットはあるか。

明日の時間は調べたのか。

もう、あきあきしてくる。何度同じことを聞いてくるんだろう。そう簡単に財布を忘れるもんですかとゲンナリする。

 

僕は財布を無くした。ブリュッセルのエアポートに。キャッシュカード、運転免許証、保険証、学生証、モンベルの会員カードなど、見てわかるようにないとずいぶん困る重要なカード類をいきなり失ってしまったのだ。

これは意外なことかもしれないが、僕はいたって冷静だった。ベルギーの空港に財布を置いてきたことを、乗り継ぎ地のバンコクで気がついたのだが、僕はそんなことよりも果てしない空腹を満たすことのほうが重要だった。

僕は財布を無くしたことに気づいた直後に博多ラーメンを扱う飲食店を見つけて感激し、真っ先に豚骨ラーメンを食べたのだ。(馴染みのある豚骨スープに加えて、バンコク特有の謎の甘みを感じた。味玉にいたっては謎の甘い何かにしっかりと付け込まれていた。もしかしたら彼らは醤油という存在を知らないのかもしれない。え、豆から調味料が作れるの、ワーオなんて言うかもしれない。そんな豚骨ラーメンを僕はサーブされたのだ。)